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2015.09.03

地元紙の取材を受けました。

  もう9月も3日。今日は新刊本について監修者の村澤先生とともに地元紙、北海道新聞の取材を受けました。

 少し喋りすぎたかもなあというのが印象です、いえ、別に変なことは話してはいないのですが、もう少し村澤先生にも譲るべきだったかもと。村澤先生とは個人的に本の絡みでよく会っているので、改めて自分たちの作業を振り返る場で横で話を聞くと当たり前ですが、語り口、息遣い、ポイントでの抑揚。さすがにうまいなあと思います。いえ、何しろお相手は大学で教えているわけですから、当然なわけで。でも、語り方の勉強になるなぁと一瞬思います。なにしろ自分はいま思っていることを伝えたいだけで、わ~と行ってしまいますから、余裕がない話し方だったろうな、ポイントがつかみづらかったかもしれないな、と思います。

 いろんな局面で、勉強になることは山ほどありますねえ。

 こういう機会が訪れるとやはり欲目が出て、自分の本のタイトルでネット検索とかしてみたりするんですけど、ほかの検索結果を見るとどうしても「う~ん」と腕組みしてしまうんですよね。何だか重たいというか、ネガティブな社会病理現象のようなタイトルが並んでいて。

 私は私たちの生活心理とひきこもることに何か確たる断絶があるとは思えないのですよ。いえ、そういうふうに言うほうが特殊で、もっと大変だ、というお話は分かるんですが、比重と言いますかね。もう少し肯定的なひきこもることの提起があって、そのバランスの釣り合いがとれて、建設的な話になっていくと思うのですが...。

 あるいは「ひきこもること」を別の角度、つまり病理ではなく、「どういう関係性の中で起きることなのか」、そもそも人と人との「関係の場」が先にあっての個人、と考えれば、こもっているひとも、こもってないひとも同じ穴のむじなではないか、という議論もアリではないかと。こうなるとわかりにくい分野の話になので、もう少し議論が煮詰まり、先に言った時に出てくる展開の話かもしれません。(そういう展開までいつか行って欲しいですけど)。

 でも面白いかもしれないのです。ひきこもりを論じることは哲学を論ずることかもしれません。究極は、ですけど。だからもしかしたら社会的な現象のみならず、哲学的な何かを提起している現象なのかもしれません。ひきこもりは。(まあ、ここまで書いてしまうと、誤解を招くかもしれないので。いまはこのあたりで)。

 誰にとってもいまの関心領域がありますから、ひきこもりの話はマイナーなのはある種必然性があるだろうし、語りがある種の固定性があるのは仕方がないことかもしれません。でも、潜在している層が数としては分厚いのでしょう?

 ではなぜ層が分厚いのにあまりにマイナーで、議論に固定性が生じるのか。これ哲学というか、これ壁だよね、と思うところなんですね。

 まあ、少しずつ少しずつですね。ある程度の「抑えるポイント」と「整理」ができればいいなと思います。う~ん。宣伝めくけど、今回の本もその中のひとつということで。Oh!YEA!ということで。

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