民主主義の現在について 田口晃さん(政治学者)
「自由主義」とは何だったのか
杉本 そうですね。自由主義の話とも。あるいは自由そのもの。いまの近代社会以後の民主主義というのは個人の内面の自由を尊重する民主主義ということになっていますよね。
田口 自由主義における、ね。
杉本 ええ。自由主義的民主主義。まあ、まず自由を立てるというのかね。僕ももちろんそういう世界の中で生きているんですけど。だからその自由という言葉ですが、最近は自由主義の「経済」の話に非常に比重が。
田口 ええ、ええ。そうそう。比重がね。そうですね。
杉本 いや、実はそれほど変わってないのかもしれないですけどね(笑)。僕が若いときからも。ただその傾向はものすごく加速している感じがしているんです。ですから、「仕事」というと経済活動、賃金労働という所にパッと観念が行ってしまって。 「自由にものを考える」その自由?それよりも自由主義経済の中でどうやって生きていくのかという所にみんな、それも「ひきこもり」話もそうですけどね。どうやって「親亡き後を生きていくのか」という所に究極的には行くしかないんですね。まあ、それもひとつの答えといえば、答えでもあるんですが。その感覚がちょっと自由主義経済のものと似ているような気が。
本来内面の自由というのは、新しい時代を作っていくために幅広く必要なアイデアなりなんなりというものを制限しない形にしていくべきなんだけども、それが塞がれていっている気がするんですね。そこがちょっと何とかしたほうがいい部分じゃないかなという気がするんですよ。
田口 あの、政治の場で自由主義という考え方では別の言い方があって、「多元主義」という言葉があるんですね。複数のいろんなものが活動できるのがいいという話になって。それがちょっと忘れられているのかもしれないという気がしますね。
杉本 それこそね。何か霊性の話とか、宗教性の話とか。人はなぜセレモニーを続けるのかとか。四十九日法要とか、それが終わっても何回忌供養とか。一方で合理主義だ、効率主義だといいつつ、ある意味では合理性とはかかわりのないセレモニー活動などをしている。
それは一貫してないといえばしていない。全部を合理主義で一貫すれば宗教的な世界観みたいなものは、合理性から少しずれていくので。だから日常的な会話の中からは排除されていく(笑)。
でもそういうところで人間は生きているから、僕は人間は経済活動だけで生きていないということのヒントは沢山埋め込まれている気がするんですよね。それはいろいろ話し合う中で、もしいま起きている活動の現象がこのまま行ったらちょっとヤバくないか?と。とりあえず僕はヤバイと思っている。ヤバくないか?という時に別の価値観といったものをいろいろと。さっき多元主義といったように、いろんな価値観をもってこないといけない所があるから、ほかの「なぜこういう儀礼とか儀式とかをやるんですか?」とか。ここで話し合われている仏教の話とかもそうだし、別の意味で価値のあることがあるはずなんだけれど、それがあまり省みられていないということもちょっと気になる点ですね。
人は意味を求める存在
田口 あの、現象学的社会学で「象徴的宇宙」の中で暮らしている、と言う話をしましたけど。暮らしている人間にとって、一番重要なのは「意味」なんですよね。意味を求めるという所が人間独特の存在なんで。その意味を求めるんだけど、いま圧倒的に意味があると考えられているのは経済活動でしょ?実際はそんなことはないわけだ。それで十分意味があると納得するかということはあり得ない。
杉本 全体の中のひとつですもんね。
田口 その「意味」という問題もあるかもしれないな。
渡部(ス) 民主主義といった時に、本当にそれを自分が必要として、自分でやるつもりがあるのか、と考えたときにまず面倒くさいとか、厄介だということが多分先に立って。ましてすでに社会と呼ばれているものの形ははっきりとあるようにみんなが振舞っていて。その中で自分の利益を主張してそこに入っていって、利害関係の話をするというのはけして愉快なことではないし。そういう視点からみればですが。
そうなったときに本当にわざわざそんな面倒な思いをしてまで民主主義という言葉を自分で使って自分が人とのかかわりを考えていくつもりがあるのかどうかを考えると、そうするくらいだったら例えば経済競争に乗って勝っていく方を目指したほうが早いとか、もっと意味がある事をした方が早いということに多分、なりやすいのかな?という気がしていて・・・。
僕の場合は自分自身がまわりの人と関わるときにどういうつもりで関わるのか。例えば「民主主義的に関わる」ことを選択するのかどうか?という風に考えた方がしっくりくるところがあって。既にある、正しいものとして「民主主義というものがいい」と言われても。とはいっても個人的な領域では独裁的に振舞いたいとか(笑)。民主主義という枠組みを使いはするけど、多元的なものに関してはうっとうしいと思っているとか。そんなに簡単に一致はしないと思っていて。特に、例えば正しいことをしたいと思ったらその時点ですごくなんというか偏狭なことに・・・、正しさ自体が狭くて、複数のものの中から一個に決めたいから正しさを言うわけで。それと同じように自分が望むものとやろうとしていることが本当に噛み合っているか、というか「負う」つもりがあるかというか、そのあたりがまだ良く分からなくて。
それと同じで、仕事の問題とかも「仕事」という言葉を自分でどうとらえて、自分が生きていく環境の中や、人のかかわりの中でどんな風に仕事という言葉を使って、どう実際に働くか、関わるかということがもうちょっと考えないと良く分からないと思っていて。
それをすっ飛ばしてとりあえず就職の時期がきたら頑張って就職活動をして何とか勤めれば。でも、派遣だけどとか。終身雇用じゃないけども転職してキャリアアップして、それで得たお金で自分の生活をまわすとか。自分の家族を養うとかという時に、もちろんもしかしたらそれが実際問題効率が良かったり、正しいのかもしれないんですけれども、全くそこに主観的なリアリティというか、必然性を感じられなくて。なので民主主義と言ってもそのレベルで僕はまだ戸惑っているという段階なので(笑)。
それを考えていって、自分の身の回りの人との関わり方に対してどういう姿勢をとるかを考えていって。その結果、出来上がった集団とか、また別の集団に属したりということがあって、その集団同士の関係性を考える余地が出てきて、またさらにその上の、という風にいけたら政治の話も出来るのかな、という気がするんですけど。そうじゃなくて「僕個人とシステム」とか、僕個人と社会っていうつながりだと「関係がない」といってもいいくらい直接つながるのが難しい気がしていて。
田口 うんうん。あの~、20世紀の一番最後くらいから新しい右翼が出てくるんですが、経済的に新自由主義だけど、ものの考え方はナショナリズムが出てくるんですね。で、彼らのひとつの特色はね。68年に対する反革命だ、という所ですね。で、私は「68年世代」*よりもちょっと上なんだけれども、考え方で何が大事か?ということは結構共通していて。で、ヨーロッパから全部でいうと、「社会のあらゆる分野を民主化していこう」というのが68年のメッセージだったんだよ。だから民主主義は政治だけの問題じゃない。まあ、別の面からいうと、実はこういう所にも政治があるんだ、と。会社の中にもあると。それができるだけ民主化していこうということだったんで、それに対する反動がまた出てきている。
政治は政治の世界に限ってね。プロにやらせろと。お前、黙ってろという話になる。男女平等?いや、男と女は違う。人間平等?いや、人間は平等と違う、能力は違うとかさ。そういう話になってくる。それがいまのそういう反動ですよね。確かに20世紀の終わり頃から。90年代の終わりから21世紀にかけて。だからそうするとアイデアとしての民主主義というのは私が毎日暮らしている暮らし方でどうやって活かすかという、暮らしを変えることが民主主義なんだ、という。その視点はもう一回必要になってくるかなという気がしますね。
渡部(ス) それを考えるときにいまの暮らし方を規定しているものとして例えば制度とか、仕事とか、集団の作り方とかいろいろあると思うんですけど、それもまた、それぞれ考えていかないと。それに縛られているほうが多い気がして。
田口 はいはい。そうですね。
渡部(ス) それを置いたまま一足飛びに社会と自分がつながっている民主主義だといってもあまりにも縛られすぎていて実質何もできないというか。
田口 自分とは関係ない民主主義になっちゃうもんね。
批判と非難は違う
杉本 いまの話を聞くと68年世代というのは生活の中に民主主義の制度だけではなくて、日常の人間関係の中に民主主義的なものが必要であるという話のようですね。それに対する反動がいまの、現代の新右翼に出ていると。
まあ確かに大変といえば大変なことではあります。急進的だったのかもしれないかな、という気もしないではないです。僕は割と好きなんですけど。その頃の音楽とかを聴いているタイプの人間ですから。サブカルチャー的、カウンター・カルチャー的なものは自分にはあるので。ただ、自分自身そのものがどうか?といわれると、やっぱり伝統的な(苦笑)。つまり自分にとって面倒臭くない生活スタイルをかなり続けているし、それはやっぱりこう、そういう人たちの「あなたの生活スタイルは古い。伝統主義的な、家父長的な(笑)生き方をしているではないか」という(笑)ツッコミどころは沢山あるわけです。ましてそこに昔ながらの日本人の「親に孝」の親孝行はどこに行ったのか?という問題も。古い判断と、新しい糾弾の声が私の中にあって(笑)。もう、ニッチもサッチも行かない(笑)。
田口 (笑)。それはね。他の人からね。糾弾されたってダメよ。
杉本 そう、そうね。内面化されちゃったともいえる。
田口 自分で考えて自分で判断して少しずつ何とかしていかないと。
杉本 そう。そうですよね。
田口 むしろ糾弾されると嫌だよね、本当にね。あのね、日本の68年世代の一番悪いところはやっぱりすごい糾弾したの。
杉本 でも、それは世界中でやったんじゃないですか?
田口 もちろん。それはフランスはもっと前から。68年とはいわずに昔からやっているわけで。考え方が違うと批判するのは当たり前だ、という考えかたなんですよ。
渡部(ス) ああ。
杉本 ああ~。それはねえ。日本はねえ。突然で。う~ん、それは確かに新しかったかもしれないですね、日本はね。
田口 だけど私はね。それは嫌いでね。「自己否定」とかいう言葉を声高に言うから、そんなことは自分がやればいいんで、人に強要するもんじゃない、って言って。
杉本 うん。そうか、そうか。
田口 それは日本の68年はちょっと未熟だったね。
杉本 うんうん。だからそう。批判というのか、問題の指摘というのかな。そういうことを日常的に組み込んでいる社会の中に生きていないと、やはり批判とかいうものは怒りの感情となったり、ショックで自分をつぶされたりという傾向を生むのかもしれないですね。
規範の強制を超えて、新しい自分たちの約束ごとを
渡部(ス) 批判というとどうしてもその背後に理念というか、一種のフィクションがあって、その正しさを共有させようとか、賛同させようという部分がある気がして苦手なんですけど。そういうフィクション性というか、そういうものにもう少し自覚的になれないとまずいんじゃないかなあという気がするんです。
田口 はいはい。批判というけど、非難なんだよね。批判というのは要するに「丁寧に吟味する」という意味なんだから。
渡部(ス) そう。自分が作っている一種のフィクションを何というか、規範的にやってしまったり、それを規範的に適応しようとしちゃったりすると・・・。何がまずいのか上手くは言えないですけど(笑)、まずい気がするんです。
田口 それはある種の強制が働くからね。それから本来的に人間の自由の問題に抵触しちゃうからね。
渡部(ス) 正しさだろうが、何だろうが、どこまでいっても主観的な一種のフィクションだと僕は思っているので。それがフィクションでなくなる余地があるとしたら、共同で立ち上げるような約束ごとが作れるなら、という。
田口 そうそう、そうそう。
渡部(ス) 一緒に立ち上げるといったら、すごい狭い範囲からしか僕は想像がつかない。
田口 うんうん。いや、それでいいんじゃないですか?「大民主主義」なんて無いと思うよ。
渡部(ス) 狭い範囲ですら難しくって(笑)。
田口 そう。難しいね。
渡部(ス) 家族だろうが、ちょっとした親戚だろうが、身近なところのたまたま同じ組織に属した人だろうが。全然出来ないです。でも、出来なかったら出来なかったで、それはある種逆に不自由になるというか、何か「自分の関係のないところから被るもの」が増えてしまうというか。あまり良いことにも思えないので個人化にも賛同できない、という。
*「68年世代」 1968年当時、世界中で学生運動が高揚した時期に大学生であった世代。中国の文化大革命、やフランス5月革命での学生運動を皮切りに、アメリカでは、「いちご白書」で有名なコロンビア大学闘争や、非暴力学生調整委員会、、ブラックパンサーにいたる学生運動の高まりがあり、またイタリアでもボローニャ大学を始めとして闘争は広がっていった。ドイツでもドイツ社学同を指導部隊とした運動が広がり、日本でもこの時期学生運動は全共闘運動など、全国の大学、高校が紛争状態となった。世界的に共通したスローガンにアメリカのベトナム戦争に対する批判があった。
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