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不登校とひきこもり 野村俊幸さん(函館青少年支援活動家)

野村 ですからひきこもりが長期化し、膠着状態にある親御さんもこの会にたくさん参加されていて、もう決して無理強いしても上手く行かないし、そもそも無理強いして何かさせれるものじゃないということは頭では分かっているわけですよ。頭で分かっているけども「でも、ずっとこのままでいいんだろうか?」ということが繰り返し繰り返し出てくるのでもう不安感から逃れられないんですよね。で不登校の場合には言ってみれば期間限定ですから。小学校の場合、意外と親御さんは時間的にまだ余裕があるので受け入れやすいんですよ。「じゃ、ちょっとゆっくり考えてみようか」みたいな感じで。こういう会に来ていろんな話を聴くと「あ、そうなんだ」という風に。ところが中学生でしかも二年、三年と受験が前にぶら下がるとね。やっぱりそうはなかなか行かないんです。そこをクリアして、中学校を卒業して自由な身になれば楽になるんだみたいな風に思えればね。結構元気になりますよ。

 

吉田 なかなか、ひきこもりだとしっかり休んでその次にスッとすんなりと行けるというようにならないところに固有の難しさがあると思います。

 

野村 ひきこもりが難しいのはそこなんです。そこが難しいんです。「いつまで休めばいいの?」と常に親から出てくるわけですよ。不登校の場合はとにかく縛りのきつい中学校などを何とかしのげば、あとはいろんな可能性があるという風に。実際いま高校というのはいろいろなルートがありますから。

 中学までは「行かなくてはならないところ」って親も子も思い込んでますよね。まあ、完全に義務教育に対する誤解なんですけどね。

 

杉本 ええ。

 

野村 行かなくてはならないところ、っていう風な目で見る義務教育の学校に対し、高校以降は「何かするために」行くところですから。その心理的な本人に対するプレッシャーの要因というのはもちろん高校にしても中退とかはとても大変なことだし、高校に行かないというのもとても大変なことなんだけれども、行かなくなった次の進路考える道がいろいろ出来てきているということも大きいと思いますよ。

 

吉田 そうですねえ。あの、野村さんの二人目のお嬢さんが中学校はほとんど不登校で、高校はジャズダンスというやりたいことがあったからこそ、アルバイトをするための資格を得る手段として高校に通っていたように思えました。その結果、ある意味、ジャズダンスで自己実現できたのかな、という印象なんですよね。

 

野村 そうですね。次女の話が出ましたけど、ジャズダンスに行ったというのも次女は小学校四年から不登校でその間しっかり家で休んでいるんですよね。だからジャズダンスを見つけて元気になって行ったんじゃなくて、不登校してエネルギーが溜まってきたので、ジャズダンスもやれたと思います。ところが親の会なんかで話しても親は常に何か「やらせたい」という気持ちが出てくるんですよ。

 

吉田 ああ~(笑)。

 

野村 何かやってると親は安心するんですよ。家にいると心配なんですよ。でも家にいるのは何かやるためのエネルギーを溜め込んでいる絶対に必要な時間なんだということです。

 

吉田 しかし親御さんとしては”Doing”(する自己)じゃなきゃだめなんですね。

 

野村 そう、”Doing”(する自己)なんです。芹沢俊介さんは『”Being”(ある自己)がしっかり保障されないと”Doing”(する自己)に向かうことはできない』とお話していますが、全くそのとおりだと思います。ところが、常にDoingで子どもを見ちゃう。ただ。きちんとこういう問題を理解している学校も出てきています。親の会では学校の登校刺激や学校の理解の無い対応で責められる親御さんてやっぱりとても多いんですよ。ところがこの前、数少ないですけれども、学校がそこのところをきちんと理解して、不登校が始まった早い段階でこちらの方へつないでくれた学校もあるんですよ。

 

吉田 ほお~。

 

野村 つい先日そのような相談があって、学校からお子さんが行けなくなって親御さんがとてもいま不安で、それが子どもに非常にマイナスの影響を与えてるので、親御さんに対するサポートみたいなことをしてもらえませんか、という連絡がありました。いま親御さんに連絡とっていて、少しずつ親御さんも落ち着いてきています。

 

吉田 非常に柔軟性のある対応の学校ですね。

 

野村 それからもうひとつ学校にとっても賢明なのは学校の立場からは「無理に来なくてもいい」とは言いにくいんですよ。

 

吉田 ああ~(笑)。そうですね。

 

野村 親にしてみると見捨てられたみたいな感じになるし、学校が責任放棄しているみたいな感じで学校に批判が向く場合があるんです。ですから「無理して来なくてもいいというのは正しいアドバイスなんだけど、当事者の学校からするとそれはなかなか言いにくいことなんです。だから私はスクールソーシャルワーカーとか私どものような第三者のところに話をつないでそこから親にアドバイスしてもらうと上手く行くと思うんですよね。

 

杉本 なるほどね。うん。

 

野村 これは話が先に進んじゃうけれども、学校完結で全ての問題解決しようとすること自体に無理がある。

 

吉田 うん。そうですね。学校には「学校に来てもらう」というミッションが存在して、それを遂行する組織という側面があって、片や親側にもなにか固定観念のようなものがあると。何でしょうね。「来なくていいよ」っていわれるとあたかも親が学校に捨てられたように感じてしまいますね、それは。

 

野村 それ学校とても責任感が強い方々が多い所ですから。そして教えることが仕事ですから、だから学校で教えられずに子どもがちゃんと成長したら「学校」というものの存在意味くなるわけです。

 

杉本・吉田 (笑)。

 

野村 だって学校は、言ってみれば自分の存在根拠を否定されてるわけですから本能的にね不登校を嫌うんだと思います。

 

杉本 ああ~。その事情、良く分かります。

 

野村 だから仰るとおり、不登校問題は制度問題なんです。学校以外でも育つことが出来るんだと。それをキチンと認めていこうという風に制度を変えれば不登校はなくなりますよ。

 

杉本 ええ、ええ。そうですね。

 

野村 だから不登校が問題じゃなくて「学校に行かない」というただそれだけのことでその子の人生なりその子の家庭がめちゃくちゃになってしまうような仕組みのほうが問題なんですよ。というのが私の意見なんです。

 

杉本 だからそういう義務教育を与える所は決まっていて、フリースクールとか、オルタナティスクールとか、ホームエデュケーションとかいうのは教育機関の中には含まれない。するとやっぱり義務教育機関としては子どもを何とかして囲い込みたいと(笑)。国もそれが正しいと思っているから不登校の生徒が増えるのは問題だから学校のほうに圧力がかかってくるという。まあ、何か勘違いによる悪循環ということになりそうですよね。

 

野村 とても乱暴な言い方ですけれども、社会の変化に教育制度がついていってないんですよ。

 

杉本 そうそう。まさにそうなんですね。いろんな生き方があるにもかかわらず、義務教育を終えて進学して大学行って、きちんと就職してということをいまだにみんな想定してるんでしょうね。だけどいま大学にきちんと行って真面目にやって、大学卒業してその途端にひきこもってしまうという。こちらのほうが結構リアリティのある話かもしれないですよねえ。

 

野村 だからひきこもり問題が起こる背景というのはもちろん学校制度の問題もあるけども、もっといろんな分野雇用問題だとか、あるいは家族状況が変わってきているとか。他のいろんな問題が絡んできてますよね。だから正直言って解決は何か?というと「これ」という風に一本でスパッといえない。やっぱり悩みもね。様ざまだし。出口が見えないという感覚になっちゃうんですよね。

 

吉田 そうですね。何かここら辺の時代の変化については、ひきこもる青年たちの個性とか性格の傾向というのも時代と共に変わってくるでしょうし。彼らに何が必要なのかというのを考えていくと、最終的には「彼ら個々人に必要ななにか」ということにたどり着くのかもしれないですね。大変乱暴な言い方ですけども。ということをここ数ヶ月杉本さんと過ごしながら思いました。

 

野村 ところが、「働いていない」とかやすい部分からだけ見て、「それがひきこもりだ」と考えるから、ひきこもりの解決は就労だ、というように、出口もまたひとつになっちゃう。勿論働いて自分で食えるには越したことがないけれども。

 

杉本 若者サポート・ステーションに対する国の発想なんかはまさにそうですね。

 

野村 そうです。それが果たして本当か。それで解決する人もいるだろうが、そうでない解決もあるのではないか?という。

 

杉本 だからその、オルタナティスクールがあるように、オルタナティな生き方というものがあればいいんですが。これはねぇ。本当に世界のどこを見渡してもなかなか大変なことですよねえ、これを社会の側として考えるべき問題として捉えれば大変だな、という。

 まあ、個人としてどう受け止めるかという問題はこれまた別。別件としてはあるんですけど。社会側として見た時には本当、ひきこもったあとにどういう風にまた改めて社会にこう、主体的に参加できるかという方法論が見当たらないし、まあ社会の側も了解できない。ひきこもりは。

 

野村 私は「社会が了解できない」ということが大きいと思うんですよね。

 

杉本 そうですね。親御さんだって了解できないわけですからね。ええ。

 

野村 そう。親御さんだってね。

 

杉本 ええ。正直。僕の親だってまずわかなかったですよ。

 

野村 とっても極端な話ですが、例えばひきこもって、まあ働いてもいない。それから積極的な社会参加もしていない。だけども家庭の中では本人の状態について親も理解し、まあ「仕方ない」ということでもいいですから家族が理解してあげて、本人もそれで安心して家庭生活が円滑に済んいる。そうなると当然親子関係も良いですから、例えば家の中の手伝いのようなことをしたり、普通にコミュニケーションをとっておだやか家庭生活出来たとしますほとんどは難しいけどそういう風に親も気持ちを切り替えて本人も納得して無理に外に出るということをしないとします

 

杉本 はい

 

野村 そういう選択で行った場合に何が問題になるんだろうな?と私は思うわけですよ。

 

杉本 そうですよねえ。

 

野村 そのこと自体をひきこもっているからということで非難してね。その人が出なきゃいけない、という働きかけは大きな余計なお世話じゃないかなって私は思うんです。ところが社会から見るとそのままずっと過ぎていって親が死んだあとに。

 

杉本 ああ~。

 

野村 良く出てきます。

杉本 テーマの中心ですよね。

 

野村 親が死んだ後に一人で生きて行けないだろう、と。最後は誰が面倒みるんだ?と。生活保護なりなんなりで、社会の税金を使って面倒見ることになるんじゃないかと。社会の迷惑だと。極論すれば、だから社会の迷惑にならないように何とかせい、という発想になってきます。

 

吉田 ええ

 

杉本 あの~、難しい言葉を使うと「社会的排除」の論理なんですね。本当に。そういう風に話が行ってしまうんですよ

 

野村 そうなんですよ。そうすると働いて収入得れない人間は”Doing”じゃないですけどね。社会に存在できないのか?という話になりますね。

 

吉田 うん。

 

杉本 そうですね。さっきだからね、僕らの所で話したところでは、これは僕がふと思いついた発言なんですけど、やっぱり親がどんなに年取っていてもいわゆる安全な場所の確保があった方が良いんじゃないかと。結果的にはそういう話になったんです。で、僕まだ(笑)。あの~、父親大分具合悪くなっちゃってるんですけど、まだそれなりに安定した家があって親もまだ生きてて、アルバイト収入以外の面では、この年で恥ずかしながら親掛かりなんです。でも、安定はしてるんですね基本的に。だからこうやって函館に来たり、いろいろ自分のいまの一番問題意識なり、面白いと思う活動できるんですよ。今や親も年老いて「あきらめ」世界の住人ですからね(笑)。むしろ病院に連れてけとか、具合悪い親父、救急車を呼んでくれとか。そういう風な形になってきて。むしろ僕が家にいないと母親が困っちゃう(笑)。

 

野村 そうですね。介護でも家事でもねその家族を支える役割を果たしているわけですから。それはでは、杉本さんが家庭にいなければ誰がやるかといえばヘルパーさんを頼む訳ですよね。

 

杉本 そうなんですよねえ。

 

野村 これは費用がかかるわけですよそこを杉本さんが家にいることによって、言ってみれば社会に経済的負担をかけないでその家族を維持しているわけですね。社会的費用を杉本さんが負担しているわけで、私は立派な社会的役割を果たしていると思いますよ。

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